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2011年5月

2011年5月31日 (火)

書店にて

 SFマガジン立ち読み。わっ、萩尾望都の短編小説集が出てる! ヨーロッパ企画の「サマータイムマシンブルース」や「曲がれ!スプーン」の入った戯曲集が出てる! 『プリンセス・トヨトミ』や『ペンギンハイウェイ』も読みたいなぁ。この本屋にはないけど道上洋三の『ないしょ話』も気になる。
 結局、面白そうな記事満載のSFマガジンを買って帰る。特集・伊藤計劃以後、上田早夕里インタビュウ、ル・グイン論など。掲載小説はあまり読む気がしない(今にかぎらず)。

2011年5月25日 (水)

震度5弱

 5時36分、福島県で震度5弱。まだまだ大きな余震(?)が収まらない。

2011年5月19日 (木)

古書店にて

 最近古書店にて買ったもの。
 惣領冬実『チェーザレ 破壊の創造者 1』幸村誠『ヴィンランド・サガ 4』クーンツ『人類狩り』アシモフ&シルヴァーバーグ『アンドリューNDR114』山口優『シンギュラリティ・コンクェスト 女神の誓約』
 そろそろまた、古書店回り封印だ。

2011年5月18日 (水)

訃報

 児玉清さん、死去。ABCパネルクイズ・アタック25司会。NHKラジオビタミンで月いちゲストとして、熱っぽく書評をしてたのが好きだった。去年の龍馬伝の父上もよかったなぁ。合掌。

2011年5月16日 (月)

世界のグロービッシュ

 『世界のグロービッシュ 1500語で通じる驚異の英語術』読了。
 英語はアメリカ人やイギリス人など、ネイティブ・スピーカーだけのものではない。諸外国でさまざまな人々がそれぞれにアレンジを加えながら使っている。
 彼らが集まったとき、非ネイティブ同士は積極的に会話しようとするのに、ネイティブが話しだすと、非ネイティブの口は重くなるという。自分たちの英語が「正しい英語」ではないという劣等感ゆえか。
 ならば英語をもっとおぼえやすくしよう、単語の数を制限しよう、発音は通じればよしとしよう、比喩はやめてわかりやすい表現をしよう(「目の上のたんこぶ」と言うかわりに「邪魔だがないがしろに出来ない相手」みたいに)、ネイティブにも努力して歩み寄ってもらおう、といった発想で整備されたのが、グロービッシュ。
 文化的な豊かな表現力をそぎ落とし、ビジネスなど事務的なやりとりに向いている。

 パレートの法則というものがある。伝えたいことの80%は、豊富な語彙の20%で話せる、ということらしい。
 ほとんどのネイティブは3500語しか使っておらず、教養あるネイティブでも7500語程度。その20%は、1500語。つまり1500語あれば、言いたいことの80%が言える。残りの20%は言い換える(例:甥→兄弟の息子)。

 なお、これ以外に、専門用語はそれぞれの分野ごとに使ってもよく、国際的になっている言葉も使っていい(ピザ、ホテル、タクシー、トイレ)ので、実際には1500語を越えるのだが。
(しかし、料理用語「ソテー」が国際用語? よく聞くけど意味しらない)

 ちょっとおもしろいと思えるエピソード。著者のひとりが昔、石油会社で地図製作者たちと仕事をしていたときのこと。強風吹きすさぶ中で数字を伝えるために、彼らは独特の発音をしていた。wuhn(1)、teu(2)、thray(3)、foar(4)、fahve(5)、seex(6)、sebn(7)、ate(8)、nahne(9)、teeyuhn(10)、lebn(11)、など。これは進化? 退化? いや、環境への適応だろう。

 グロービッシュはもしかしたら、田中克彦が『エスペラント——異端の言語』で言っていたように、いずれ本来の英語をおぼえるはめになるのかもしれない。でも、このまま英語のアンバランスを続けるよりは、いいのかもしれない。

 こういうのは、どうだろう。すべての言語をグロービッシュ的に簡略化し、それを憶えあう。純正語に興味のある者は、好きな言語をさらに勉強すればいいし、最低限の意思疎通さえできればいいのなら、それ以上は強要しない。ビジネスや外交では、簡略語で済ませることとする。
 日本語は、どんなふうに出来るだろう? 漢字をなくす? 当用漢字でさえ、あるとないとでは憶える負担が格段にちがうものなぁ。
 ・・・中国語はそうもいかんけど。


2011年5月11日 (水)

中村佑介絵はがき

 イラストレーター中村佑介の3枚組葉書セットが届いた。私の義援活動その一。
 それにしても、ふたセット分、千円を振り込むのに、手数料420円とは!
 効率わるい。テレビ・ラジオ局に義援金を送るのが堅実かなぁ。

 中村佑介のサイトはこちら

2011年5月10日 (火)

北村薫『ターン』

 読み返すたびに感動するのだが、著者による「付記」を読むたびに分からなくなる。
 真希が出現するところに柿崎が居合わせるのは、おかしい!

 柿崎の見ている前で、真希は消失し、一日前の居間に戻っている。
 いっぽう、真希が出現した居間に、柿崎が待ち伏せる。真希の見ている前で、柿崎が消失する。

 ちがう、ちがう!
 仮に、無人の世界の片隅に、常に日時が表示されているとすると、真希が出現するのは昨日(仮に5月10日とする)の午後3時15分で、柿崎が消失するのは今日(5月11日)の午後3時20分だ。けっして真希は、11日の午後3時15分に出現しはしないのだから、柿崎が待ち伏せすることは不可能だ。

 本人も指摘されてわかったようだが、本人が納得いくように考えた解釈「付記」が、言われるまで気づかなかった私にはかえって逆効果。いや、ああいうシチュエーションは、たしかに捨てがたい。なんとか理由づけをしたい著者の気持ちは、わかる。

2011年5月 1日 (日)

古書店にて

 星野之宣『宗像教授異考録 15』シリーズ最終巻。13・14巻が未読なので、しばらく封印。

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